2029 はたらく物語 河野真太郎
図書館より。笠間書院。副題、漫画・アニメ・映画から「仕事」を考える8章。
『3月のライオン』や『プラダを着た悪魔』を例に取りながら、現代において「はたらく」とはどういう意味を持つのか考察した一冊。
論の背骨は「フォーディズム」と「ポストフォーディズム」である。フォーディズムとはクルマのフォード社に由来し、画一的な商品を大量生産し、それを大量に消費するやり方である。そこには一人一人の個性は必要とされない。ポストフォーディズムは現在の、コミュニケーション能力や感情のケアといった人間らしい側面が産業そのものになる状態である。20世紀と21世紀の分断と言ってもいいかもしれない。
*フォーディズムという言葉は、自動車製造会社のフォード社から来ています。フォード社は1913年にベルトコンベアーの上に自動車を流して製造していく方式を発明しました。それによって、画一的な製品を短時間・低コストで作り、低価格で大量に売るという、大量生産・大量消費の体制を作り上げたのです。
*ポストフォーディズムにおいては物質的精算から非物質的精算へと焦点が移ったといわれます。情報産業、知識産業、そして感情産業へと重点が移ったということです。
#ポストフォーディズムにおいてはコミュニケーション能力や感情管理能力といった、フォーディズム家では人間的能力(つまり労働者として以外の)能力と考えられていたもの、余暇に属すると考えられていたようなものが、労働のための重要な能力、もしくは商品そのものになるのです。
#人権の問題、人間存在の平等の問題であったはずのフェミニズムが、資本主義的な成長に役立つ限りにおいて認められる平等へと切り詰められたような状況のことです。
#これは言い換えると、新自由主義にフェミニズムの目的が簒奪された状況ということもできます。
次の表現はもっとわかりやすい。
#女性は未だ利用できていない労働力資源と捉えられているのです。政府が打ち出す男女の平等は、あくまで労働力としての平等であり、そのフェミニズムに見えるものは、経済成長に貢献する限りにおいて認められるフェミニズムなのです。
#「終わりなき学び」の理念が、現代においては「終わりなきスキル獲得」へと逸れているかもしれないのです。つまり、資本主義における労働スキルの終わりなき獲得です。
生涯教育も資本主義にその意義を奪われる。「老後の消滅」とも表現されている。
*フォーディズム下では学校で勉強ができることは非常に重要でした。それはある種の「公平」なメリトクラシーの尺度になっていたのです。新自由主義とポストフォーディズムにおいては事情が変わってきます。学校的な(机で学ぶ)知が否定され、人間性、コミュニケーション能力、問題解決能力といったものがやたらに強調される雰囲気も感じられるのではないでしょうか。
メリトクラシーとは能力主義。おいおい、ガリ勉の存在価値はどうなるのだ。
次は衝撃の一言。
#90年代に準備され、2000年代以降に花開いたこのデスゲームというジャンルの背景はかなり分かりやすいものでしょう。それは、新自由主義的な競争社会です。
『バトルロワイヤル』は現代の縮図。
#なぜ、新自由主義/ポストフォーディズムへの移行が必要だったのか。
#私はそれを説明するひとつの方法は、資本主義は常に「成長」をしていないと瓦解してしまうようなシステムだから、という説明だと考えています。人口は常に増加し、生産量と消費量が常に増加しなければならない、そのようなシステムです。
『逃げるは恥だが役に立つ』『天気の子』『魔女の宅急便』など、ティーンエイジャー向けの素材を選びながら議論のレベルはハード。どういう人が読むのであろう。
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